2010年10月24日日曜日

オオナマズがダムから脱走 捕まえて売って大儲け

(メコンオオナマズ: wikipedia より)

ソース
ปลาบึกนับร้อย ตกสันเขื่อน จับขายรวยเละ
http://www.thairath.co.th/content/region/121366

ラムタコーンダムの水が溢れ、オオナマズ数百匹が岩に激突。ナコーンラーチャシーマー県クローンパイ区の住民が捕まえて売り払い大儲け、数万バーツの収入に。洪水の苦あれば楽あり・・・

ナコーンラーチャシーマー県シーキウ郡クローンパイ区にあるラムタコーンダムでは、低地への放水を続けることによって、ダムの下流に住む市民への被害が拡大することを恐れ、ダムからの放流量を減らしている。そのためダムの貯水が溢れ、堤防から下にある放水路へと流れ落ちた。堤防の高さは10メートル以上あり、堤防を越えて流れ落ちる水と一緒に、いろいろな魚が飛び降りてきた。その中にはオオナマズが数百匹ほど含まれており、地面にある岩に激突した魚はぐったりとしたまま流れていく。

ダムの堤防から魚が降ってくるとの知らせは瞬く間に広がり、クローンパイ区周辺の村人が喜び勇んでダムの下流付近に流れてくる魚を掴み取りはじめた。ある者は魚網を持って土手にある木に網を結び、重さ15kgから30kgもある大ナマズを50~60匹ほど捕まえた。魚はダムの横に車を停めて待っている商人たちが買い取られる。商人たちはこの地方でオオナマズを扱っている人たちで、クローンパイ友好市場に持って行き、キロ当たり80~100バーツで売りさばく。ある家族はたった一日で数万バーツの収入を得た。

この事件が伝えられたのは10月24日13時半、ナコーンラーチャシーマー県シーキウ郡コラート市の記者にクローンパイ署のウタイ・シーストー警察少佐から連絡があり、オオナマズ数百匹がラムタコーンダムの堤防から溢れ出し、地面の岩に叩きつけられて力尽き、川の流れに身を任せていると伝えられた。真偽を確かめるために記者がクローンパイ区のラムタコーンダムに向かったところ、ラムタコーンダムの放水口の下流にある放水路で、男女入り交じった村人たちが魚網を持って、網を川岸にある木に結び、速い流れに乗って流れていくさまざまな種類の魚を捕まえようとしていた。

とある村人は重さ10kgから80kgあるオオナマズをたくさん捕まえることができた。ほとんどの魚は表面にひっかき傷が付いていたがまだ生きており、魚を水から引き揚げるとすぐに待ち構えていた商人にキロ当たり60~80バーツで買い取られた。そのあと、傷のない魚は高値を付ける仲買人に転売され、ひっかき傷のある魚はキロ当たり100バーツの値が付けられ道端で売られる。道路を通りがかった人が車を停めて買っていくので、道端は小さな市場のように賑わっていた。

シーキウ郡クローンパイ区に住むパデット・シーホントーンさん(27歳)は、今朝未明に友達が駆け込んできて、ラムタコーンダムの放水口に魚がたくさん落ちてる、高さ10mの堤防から溢れた魚が地面にぶつかって、ラムタコーン川に流れていると言うので、急いで車に乗って見に行ったところ、本当にその通りだった。すぐに引き返し、魚を捕まえるワナに似た、極太の縄で編まれた網を持って行き、両岸の木に結んで網を広げ、浮かびながら流れてきた魚を捕まえた。今日は友達と一緒に中型のオオナマズを60匹ほど捕まえ、すぐに商人がキロ当たり60バーツで丸ごと現金で買いあげてくれたので、友達と10万バーツを山分けした、と語った。

クローンパイ区に住むアナンタチャイ・ブンマールートさん(30歳)は、自分はラムタコーン発電所に勤めて数年になるが、ダムの水が堤防を溢れたり、こんなに大量の魚が流れでたことは今までにない。ダムから魚が溢れるのを見て、友達を誘って網を張り、重さ10kgのオオナマズを40匹以上捕まえて商人にキロ当たり60バーツで売ったところ、数カ月分の給料分を稼いだと語った。

魚を買い取って道路脇で売っているブンチュアン・チャンタースーンヌーンさん(50歳)によると、自分は普段はシーキウ市場で野菜を売っているが、ラムタコーン川にオオナマズが流れているとの知らせを聞いて、村人から魚を買おうとやって来た。もう100匹以上のオオナマズを買い取って、小売りをしたり、仲買人に転売したりした。一番大きかったのは重さ80kgだけども、村人のティアさんが137kgのオオナマズを捕まえて、クレーン車を使って水路から持ち上げたそうだ。今回、ラムタコーンダムから大量のオオナマズが溢れでたのは、村人にとってとてもありがたいこと。魚を売って数万バーツの収入を得られて、運がいい人は10万バーツの大金を得た。家が洪水に遭って大変だったけど、苦あれば楽あり、人生捨てたもんじゃないですよ、と語った。

2010年10月23日土曜日

バンファイ・パヤーナーク

ソース
บั้งไฟพญานาค - จากวิกิพีเดีย สารานุกรมเสรี - wikipedia

バンファイ・パヤーナーク メコン川の流れから飛び出す火の玉

バンファイ・パヤーナーク(บั้งไฟพญานาค)はいまだ明確に説明されていない自然現象である。外見はピンク色をした火の玉で、臭いや煙はなく、音もしない。メコン川の流れの上空高さ1-30mに現れ、そこから高度50-150mまで上昇し、そのあいだにかかる時間は5-10秒程度である。この現象が起きるのは1年に1度、出安居の日だけで、この日はラオス旧暦11月ืの満月の日であり、タイの陰暦では11月の満月の日もしくはその翌日にあたる。各年3-7日間にわたって見ることができる。

毎年、バンファイ・パヤーナークの90%以上は、ノーンカーイ県タイ寺前、ラッタナワーピー郡ナムペー村、ブンカーン郡アーホン寺、サンコム郡ヒンマークペーン寺とアーンプラーブックに現れる。

バンファイ・パヤーナークを研究している複数のチームが、この現象を科学的に説明しようとしている。例えば、メタン・窒素ガスによるもの、水面下にある動植物の死骸が分解され発生したリンによるもの、といった説である。

タイだけでなく、地球上の他国においても同様な現象が起きている。例えばアメリカ合衆国ミズーリ州とテキサス洲におけるマーファ・ライトや、その他にもサウジアラビアの紅海近くにあるジェッダ市でも似たような現象がある。

2010年10月8日金曜日

俳優ミット・チャイバンチャーの事故死


ソース
มิตร ชัยบัญชา - การเสียชีวิต

1970年、ミットは「インシーデーン」(อินทรีแดง)の6回目の映画化となる「インシートーン」の撮影に、監督兼主演俳優として参加した。ミット演じるローム・リッティクライことインシーデーンが、カチット・クワンプラチャー演じる偽インシーデーンの調査に乗り出すという筋書きで、他にも役者のペッチャラー・チャオワラートとワートサナーが参加していた。

1970年10月8日、チョンブリー県南パタヤにあるドンターン浜でラストシーンの撮影が行われるまでは、撮影は順調に進んでいた。インシーデーンが悪者を退治したあと、悪者のアジトを取り込んだ警官から逃げるため、ワートサナーが操縦するヘリコプターから垂らされた縄ばしごに掴まり、カメラはインシーデーンを連れたヘリコプターが飛び去る姿を撮影する予定だった。


本物らしく見せるため、また代役が着る衣装の準備が整ってなかったため、ミットは綿密に決められた撮影手順に従って、自分自身がこの場面を演じることに同意した。しかしミットは技術的な問題、すなわち撮影中は上昇する機体に振動が発生するということを知らなかったと思われる。ミットは縄ばしごに足を掛けることができず、はしごにぶら下がったままとなり、ヘリはカメラの前を通過した後も降下しなかった。ミットは両足の裏を合わせ打ち鳴らして知らせようとしたが、操縦士は異常にも地上からの知らせにも気が付かないまま高く上昇し、機体を反転させ強い力で振り回したため、ミットはぶら下がり続けることが出来ずにヘリコプターから落下、90mの高さから地面に激突した[9]。彼は上記のヘリコプターで5分以内にシーラーチャー病院へ搬送されたが、すでに手遅れだった。検死の結果によれば、怪我は体のあらゆる部分に及んでおり、ほぼ即死の状態で、手首には深さ2cm長さ8cmの紐による外傷、右あご骨を骨折、右頬骨を骨折、右耳から出血、右肋骨5本を骨折、右大腿骨を骨折、上腕骨を骨折、死亡時刻は16時13分頃であった[17]。

1970年10月9日、タイのあらゆる新聞が一面で彼の死を伝え、その知らせは日本や香港、台湾まで届いた。彼の死が報じられると、彼の財産の大部分は3軒の家から運び出され、死に水を取るときに着せる服が一着もなかった[19]。


ミット・チャイバンチャーの遺体はケーナーンルーン寺に安置され、死後100日が経った1970年10月21日に荼毘に付され、式には数万人の人々が押し寄せた。火葬はケーナーンルーン寺からテープシリン寺に場所を移して行われ、参列した人々は30万人を数えた。ククリット・プラモートはこの式の様子を、いままで行われた一般人の葬式で最も参列者が多かった式、と述べている[3]。

2010年10月6日水曜日

エアポートリンクに不備多数 苦情殺到

ソース
แห่ร้องเรียนแอร์พอร์ตลิงก์ จุดบอดเพียบ
http://www.thairath.co.th/content/region/116615

施設の不備が多数あり、利用者を混乱させているとの苦情を受け、運輸省がエアポートリンクのサービスの緊急調査へ。

ソーイティップ・トライスット運輸省長官によれば、エアポートリンクの利用客からマスコミに対し、駅でのサービスの悪さを訴える苦情が寄せられている。運輸省では、公共輸送システムの安全を管理監督する部署から係官を派遣し、苦情があった場所へ調査を行ったところ、行き先の表示板や、危険を知らせる表示板など、看板表示が少な過ぎるため、利用者を混乱させていることがわかった。例えばラーチャプラロップ駅とパヤータイ駅の下にあるUターン道路では、道幅が狭すぎるために乗客を送迎する自動車が通りづらく、また他の公共交通機関への乗り換えや駐車場にも問題がある。

ソーイティップ長官によれば、これ以外にも駅の昇降に問題があり、駅へ登るときはエスカレーターがあるが、下りは階段しか設置されておらず、旅行用トランクを持った利用者はカバンを持ち上げて降りなければならず、不便であるといったことが挙げられている。今月中にできあがる調査報告を待って、交通省に問題の改善を求めていく方針。

2010年10月5日火曜日

夢に導かれて地面を掘ると アユタヤ時代の短刀が

(タークシン大王の像)

ソース
ขุดตามความฝัน พบกริชโบราณ สมัยพระเจ้าตาก
http://www.thairath.co.th/content/region/116569 キャッシュ

カオクンパノム寺(วัดเขาขุนพนม)の住職が二晩続けて奇妙な夢を見た。「タークシン王」と将軍に会い、洞窟に埋もれた武具を掘り起こすよう命じられる。夢の意味を寺の重鎮に相談し、地面を掘り起こしたところ、古代の美しい短刀を発見した。

10月5日、本紙記者は地元住民から、その日の昼前に、ナコーンシータマラート県プロムキリー郡バーンコ区3番にあるカオクンパノム寺で、歴史的価値のある古代の短刀が発掘されたとの知らせを受け、取材のために現場へ赴いた。

この寺はクンパノム山の麓にある。寺の僧が記者に語った話によれば、古い短刀を掘り起こしたのは、この寺の住職である。その住職は、寺にいる僧と付近の住民を引き連れクンパノム山を登り、寺から約200m離れた場所にある洞窟を訪れ、短刀を祀る儀式を行った。

そこで記者がその場所へ向かったところ、断崖の近くにある岩を登った先にある大きな洞窟を見つけた。洞窟にはロープを使って降りなければならず、内部は真っ暗だったが、80mほど歩くと僧侶と村人がお経を唱えている広い場所に出た。松明に照らされた内部を見ると、この洞窟内部はとても広い場所で、およそ千人が入ることができると思われる。洞窟には大きな仏像が安置され、儀式の前方では2本の短刀が白い布の上に供えられていた。

住職ピヤクナーターン指導僧(40歳)は上記の短刀を持ってきて記者に見せてくれた。長さ30cmはあると思われる長めの短刀で、青銅が混ざった黒い金属でできており、その刃には古代の文字で銘が切ってあり、柄は龍神パヤナークの姿をしている。ピヤクナーターン指導僧によれば、この短刀を見つける前に、タークシン王と古代の鎧を来た将軍たちが夢に現れた。彼らは僧の周囲を取り囲むように立ち並び、洞窟に埋められた古代の王剣を掘り出して、すでに見つかっているもう1本と一緒に、寺の保管所に入れてほしいと僧に頼んだ。

「夢の中で王は仰った。洞窟の真ん中を鍬で28回掘るのだ。さすれば200年間土の下で眠っていた王の短刀一対が見つかるであろう。王はこの洞窟に現れ、王と将軍を祀るよう頼まれ、その後拙僧の身体は何回も炎に包まれた」

ピヤクナーターン指導僧はさらに以下のように語った。次の夜もまた同じ夢を見てからは、眼を閉じて眠ることができなかった。一晩中僧衣が燃えているように熱く感じられ、何回も僧坊から出て水浴びをしても熱は消えそうになかった。夜明けを待って寺の僧たちに夢で見たことを語ったところ、寺の重鎮たちの知るところとなり、洞窟の中央部、石灰石が混じった地面を掘り返すことが決まった。鍬で28回掘り下げたとき、夢と同じように短剣が発見されたことは驚くべきことだ。短剣を見つけたあとで供養の儀式を行ない、タクシーン大王とその将軍たちを供養した。

カオクンパノム寺の住職は続けた。普通であれば一部の新米僧たちのように迷信や秘術の類は信じない。政治学の学士号を取得しており、コンピューターと最新技術を様々な場所で学んでいる。秘術や呪術を信じたことは一度もない。以前はナコーンシータマラート県代表を務めていた、ワット・マハータート寺住職、テープウィンヤーポーン僧の秘書助手をしていた。こんなことが起こるとは夢にも思わなかった。芸術局の担当係官に連絡して、発見した短刀を調査し、この短剣がいつの時代に作られた物なのか、どんな経緯でここに来たのか、専門家に鑑定してもらうつもりだ。しかし短剣の刃に刻まれた文字は古代スリランカ文字のように見える。

一方、ナコーンシータマラート県プロムキリ郡バーンコ区在住で寺委員も勤めるカオクンパノム地区の住民クローム・ポンパン翁(94歳)が記者に語った話によれば、生まれた時からここに住んでおり、子供の頃は寺やクンパノム山を走り回っていた。当時祖父母や父母からは、タークシン大王が亡くなった場所は、首都ではなくクンパノム山の頂上にある洞窟の中だと聞かされていた。その証拠となる食器や宝石、価値ある古美術品多数が寺、洞窟、そして近隣の山にも多く残っているため、調査をすることができる。成長してからは歴史を学び、学んできたタークシン大王が死後に残した品々と、自分の目で見た品々や、先祖代々伝承されてきた話、そして証拠の品々などをいろいろ比較してみたが、いささか違っているように思われる。自分やナコーンシータマラートに住む人々の多くは、大王はこの地で崩御され、このナコーンシータマラートと南部十二支地区の支配者の先祖となり、そこから多数の子孫が繁栄したものと信じている。

続いて、シンブリー県バーンラチャン郡チューンクラット区出身で、現在は寺の門下生となっているニティットポン(またはファーサイ)・ルークソーピー氏(46歳)が、寺や洞窟や山の中にある証拠の数々を記者に見せてくれた。寺に入るときは東側から245段の階段を上がらなければならず、その両側にはずっと龍神パヤナークの彫像が途切れることなく続いている。非常に古びた東屋の少し手前に来ると、タークシン大王が仏門に入ったのはこの東屋だと言われており、この近くにあるもうひとつの東屋で大王が瞑想をしたと信じられている、とニティットポン氏は語った。

この他にも記者は、ナコーンシータマラート県チアヤイ郡カオプラバート区出身の、デーン・アパイロート比丘尼(80歳)と会った。比丘尼はナコーンシータマラートやその他の地に住む家族と一緒にタークシン大王を拝むため、この地で20年以上も出家生活を送っており、この地は大王が最後の時を過ごした場所だと信じている。寺とその周辺には修行をしている者が多く住んでおり、その殆んど全てがタークシン大王を拝み奉っている。