2010年9月29日水曜日

アユタヤ地方裁判所 麻薬所持の日本人男性を保釈

(タイ王国麻薬取締警察のサイトにあるヤーアイスの写真)

ソース
ศาลอยุธยา ให้ประกันตัว หนุ่มยุ่นพกยาไอช์
http://breakingnews.nationchannel.com/read.php?newsid=471345

9月29日10時30分、この事件に関して進展があり、プラインラーチャー署の捜査官はコージ容疑者の身柄をアユタヤ県地方裁判所に移送し、麻薬ヤーアイス所持の罪状で起訴するため、捜査期間中の身柄を勾留したが、容疑者は保釈金5万バーツを支払い保釈され、10月11日に再度裁判所に出頭することになった。裁判所は捜査の結果を待ち、捜査により発見される麻薬の量によって懲役刑か罰金刑を検討する予定。

容疑者を逮捕したスープサック・ピンセーン警察中佐によれば、コージ容疑者の麻薬の使用歴は長く、日本人の知人と一緒に麻薬を使用することを習慣にしていた。コージ容疑者はサラブリ県の売人から使用目的で麻薬を購入しており、麻薬所持の容疑で取り調べを行っているが、捜索により使用目的の量を超える麻薬が発見されれば、販売目的で所持していた容疑が追加される可能性がある。また日本のテレビ局でもコージ容疑者の逮捕を大々的に報道しており、容疑者が日本の親会社から停職処分を受けたことを伝えている。さらに容疑者は麻薬のブラックリストに名を連ねていた。

2010年9月28日火曜日

パープルライン建設のため、日本からタイへ86億9500万バーツの供与

ソース
ไทยกู้เจบิก 8,695 ล.ลงทุนรถไฟฟ้าสีม่วง
http://breakingnews.nationchannel.com/read.php?newsid=471158

プラディット・パタラプラシット副財務相によると、タイ財務省はタイ政府と日本政府の相互協力及び借款契約に調印した。借款は国際協力銀行(JBIC)を通じ、2つの経済的・社会的プロジェクトに総額約86億9500万バーツが投資される。

ノンタブリー県道1号線周辺でチャオプラヤー川を渡る橋の建設計画には、優遇条件による借款が提供され、第1期の建設費用の利子は年率0.95%、返済期間は20年で、最初6年間は返済を猶予される。

タイ国鉄による近郊電車パープルライン計画(バーンヤイ-バーンスー間)の第2期工事に対しては、利子は年率1.4%、返済期間は25年で、最初の7年間は返済を猶予される。この借款については、コンサルタント料の利子は年率0.01%となっており、その割合は借款未払い分の0.1%に制限される。資材購入とサービスの条件は自由となっているため、世界各国から国際競争を経た価格で資材購入やサービスを受けることができる。

日系企業役員をヤーアイス所持で逮捕

(タイ王国麻薬取締警察のサイトにあるヤーアイスの写真)

ソース
จับกก.บริษัทญี่ปุ่นพกยาไอซ์
http://breakingnews.nationchannel.com/read.php?newsid=471149

アユタヤ県バーンパイン郡プラインラーチャー署刑事スープサック・ピンセーン警察中佐は、麻薬ヤーアイスが所轄内に運ばれてくるとの情報に基づき、バーンパイン郡チエンラークノーイ区を通るアジア幹線道路上り線脇の建設現場付近に検問を設置したところ、情報通りバンコクナンバーを付けた黒のトヨタ・カムリが通ったため車内を捜索した。

運転していたのはアユタヤ県ハイテック工場団地にあるチヨダ・インテグレ(タイランド)で運転手を勤めているロッブリー県在住の33歳のタイ人男性、またチヨダ・インテグレ(タイランド)の役員である日本人男性コージ・キロセ(46歳)が後部座席に座っており、黒い革カバンをしっかりと抱えていた。捜査官が調べたところ、カバンの中にはもうひとつ小さなカバンが隠されており、その中から麻薬ヤーアイス0.57グラムと器具が見つかったため、身柄を確保しプラインラーチャー署へ連行した。

取調べによればコージ・キロセ容疑者はサラブリー県のエージェントから麻薬ヤーアイスを一回あたり2-3万バーツ購入し、日本人の同僚に転売、一緒に使用していた。警察ではまず麻薬の所持で起訴し、取調べでさらなる証拠が見つかれば、追って他の容疑でも起訴する方針。

2010年9月14日火曜日

唐辛子の伝来史


ソース
ประวัติความเป็นมาของพริก

タイでは唐辛子の栽培法が知られており、その食べ方についても、生のままだったり、乾燥や発酵させたり、炒め物やスープなど、幾通りもの方法を知られている。一般的に唐辛子は2つの種類に分けられ、小粒庭唐辛子やタイ小粒唐辛子、黄色唐辛子といったとても辛い種類と、ピーマンや大唐辛子などのあまり辛くない種類がある。

普段からあまりにも唐辛子に慣れすぎているため、唐辛子はタイ原産の食べ物だと勘違いしてしまうかもしれない。しかし植物歴史学者によると、唐辛子の原産地は中南米であり、探検家が唐辛子をヨーロッパに持ち込み、そこから世界中へと広まっていった。

考古学の調査によると、メキシコ先住民は9,000年前から唐辛子を食用にしていた。その証拠として、ワカ・プリエタという土地で発掘された大便の化石の中から、約9,000年前の唐辛子の種が見つかっている。オルメック人、トルメック人、アステカ人といった人々の生活様式を研究した結果、これら先住民族は唐辛子を栽培し、食用にしていたことがわかっている。この他にも、歴史学者はペルー近辺で2,000年以上古い唐辛子の木を発掘しており、それ以外にも、1,900年前にペルーに住んでいた先住民の服の刺繍には、唐辛子の木の模様がある。

歴史学者ピーター・マーターは1493年の記録で、コロンブスがアメリカから持ち帰った赤唐辛子は味が辛い、と書いている。1494年、コロンブスの第2回目の航海に同行した医師は、アメリカ先住民は唐辛子を使った料理を好むと記している。スペイン軍がアステカ王国を侵略した際、コルテスは手紙に、アステカ王は唐辛子を混ぜた食事を召し上がる、と書いている。

唐辛子の最大の特徴は辛い味だ。先住民はこの強力な力を捕虜や敵を苦しめるために用いた。大量の唐辛子を燃やし、スペイン軍に向けて唐辛子の煙を浴びせて苦しめた。マヤ族には風習があり、マヤ族の女性が隠れて男性を見ていた場合は目に唐辛子を擦りつけ、娘が伝統に反し貞操を失ったことを父母が知ったときは「秘所」に唐辛子を塗った。アンティルにいた先住民のカリブ族は男の子が怪我をしたとき、傷に唐辛子を塗って忍耐心を鍛えた。またこの部族は捕虜を得ると火の付いた棒で突ついて火傷を負わせて唐辛子を塗り、捕虜が力尽きるとその肉を薄く削ぎ唐辛子で味付けし食料にした。

スペイン王フィリップ2世の侍医だった歴史学者フランシスコ・ヘルナンデスは、植物と動物の自然を調査するために新大陸(アメリカ)へと送られ、その報告の中で先住民は唐辛子の栽培を非常に好むと述べている。15世紀から16世紀にかけ、50年間にわたってアメリカ大陸を研究したベルナベ・コボは、メキシコ先住民にも同じく唐辛子を栽培する習慣があると述べている。彼の著作「ヒストリア」によると、先住民は唐辛子をトウモロコシに次ぐ大事な植物とみなしており、唐辛子を生食し、神を祀る全ての儀式で唐辛子を用いた。しかし断食の時期になるとこの先住民は唐辛子を含んだ食べ物を全く口にしなかった。さらにコボの記録によると、唐辛子の実だけに限らず唐辛子の葉も食用になるという。スペイン貴族の子孫ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガによると、先住民は唐辛子を非常に価値のある果物と考えており、インカの料理には多少なりとも唐辛子が入っている。また先住民の医者は、適量の唐辛子を摂った者は胃腸の具合が正常だが、大量に摂りすぎると危険な状態になると考えていた。ドイツ人学者アレクサンダー・フォン・フンボルトもまたアメリカ大陸に渡り長期間の研究を行った一人であり、ヨーロッパ人が塩を生命に不可欠な存在とみなすのに対し、先住民はそれと同様に唐辛子を重視していると比べている。

唐辛子がアメリカ大陸から海外へ広がった歴史を調べると、1493年に初めて唐辛子を自国へ持ち帰ったスペイン人、アルバレス・チャンカに行き当たる。南アメリカで唐辛子が栽培されていた国の名前がチリだったことから、スペイン人は唐辛子をチリと呼ぶようになった。それから55年後には英国人も唐辛子を知るようになり、1555年にはヨーロッパ全域で唐辛子の栽培が始まった。1750年頃、ポルトガル人によって唐辛子はインドと東南アジアへと広がっていく。

生物学者によれば、唐辛子はナスやタバコと同じナス科に分類される。唐辛子の学名は Capsicum annum で、語源は腐食させるという意味の Kapto である。しかし一部の言語学者は本来の語根は箱を意味する Caspa であると主張しており、何が元になったかの意見は分かれている。いずれにせよ唐辛子が辛いことは誰もが認めるところで、マヤ人は唐辛子を口から息を吸うという意味の Huuyub と呼んでいた。薬学師による唐辛子の研究では、唐辛子を口に入れると、過去に医師がさまざまな病気の治療に、唐辛子を使用したかどうかがわかるそうだ。

(後略)