2012年9月23日日曜日

メーモ スモッグの町

ソース
แม่เมาะ เมืองในหมอกมลพิษ
作者:サムーチョン・トンパット(เสมอชน ธนพัธ)

1992年10月3日。その年の雨季の終わりと寒期の始まりを告げる冷風は、例年よりも早くやってきた。まだ残る熱気に冷たい風がぶつかると、風はメーモ発電所から約5kmの距離にある、ソップパート村の方角へと流れた。反転した温度が盆地の地理的条件と組み合わさると、上空の空気は二層に分離し、発電所の煙突から昇った煙はまた地表へと舞い降りた。

この事件では、数千人の村人と発電所の職員たちが、二酸化硫黄の吸入による呼吸困難、吐き気、頭痛、目と鼻の痛みを訴えた。子供、老人、心臓病・アレルギー・呼吸器の患者などの身体が弱い人々の症状は急激だった。またこの事件から2ヶ月以内に、発電所の周囲にある田畑の50%以上が酸性雨による被害を受けた。

メーモ発電所の計画が、政府の認可を受けたのは1972年のことである。1975年にタイ発電公社は石炭火力発電3機の建設を開始し、その後第4~11号機が増設された。事件が起きた日は、通常排出される二酸化硫黄と粉塵に加え、複数の発電機で集塵機が故障していたために、空は暗くなり、汚染は周辺一帯に広がった。

当日の大気の状態を調べた結果、二酸化硫黄の濃度が最も高かった時間帯では、2,200μg/㎥の濃度が45分間続いたことがわかった。タイ発電公社は事故の後、入院患者には一人あたり5,000バーツ、外来患者は一人あたり1,000バーツの補償金と、一人一日あたり100バーツの休業補償を支払い、その総額は400万バーツを超えた。

この問題が起きた後で、タイ発電公社は大気汚染への影響を和らげるために、第4-11号機への排煙脱硫設備(FGD)の設置に同意した。第1-3号機は老朽機であり、投資額に見合わないとされ、設置は見送られた。第1-3号機は後に運転を停止している。その後でタイ発電公社は発電機2機、すなわち第12・13号機を増設し、1995年から運転を開始している。

FGDを設置したにもかかわらず、メーモの空からスモッグが消えることはなかった。1996年に発電機が最大出力で稼働し始めると、大気汚染はさらに悪化した。1998年にもう一度事故が発生すると、タイ発電公社は事故当日に稼働していた排煙脱硫設備は、全10機のうち2機だけであることを認めた。

衛生局によれば、メーモは10μm以下の粉塵による問題を抱えており、1995年から2000年までの調査では、10μm以下の粉塵濃度は各所毎の平均で50μg/㎥である。しかし、値の高い地区では500μg/㎥を超えていた(基準値は120μg/㎥以下)。しばらく経つと粉塵の問題は落ち着いたが、2007年3月4日のメーモにおける10μm以下の粉塵濃度は209μg/㎥まで上昇している。

何度も繰り返される大気汚染の問題は、最終的には住民がこの場所からの集団移転を要求するに至った。1996年、タイ発電公社は4郡(ナーサック郡、ソップパート郡、メーモ郡、バーンドン郡)16村、3,500世帯の集団移転に同意した。しかし移転が実施されたのは2001年、住民の集団移転が閣議決定されてからであり、その対象はただ1村、ハーンホン村400世帯だけだった。現在になっても住民の移転はまだ終わっていない。

その一方で、メーモ郡の住民437人は、補償金の支払いを求めてタイ発電公社を告訴した。2003年、チェンマイ行政裁判所に提出した訴状では、メーモ石炭火力発電所では品質の低い褐炭を使って発電しており、大気へ放出する前に規定の排気処理をしておらず、その結果健康被害を起こしている、と訴えている。2009年3月4日、行政裁判所はタイ発電公社に対し、住民の心身への被害に補償金を支払うよう命じる判決を下した。住民への補償金は一人あたり246,900バーツに、訴訟開始日から年7.5%の利子を加えた額で、さらにフアイキン村の住民には避難移住場所を手配するよう命じている。現在はタイ発電公社が控訴中である。

公害の解決と被害者への補償は前途多難である。遠くから見ると、メーモを包むスモッグは、石炭火力発電所をこれ以上増やさないために立ち上がった守護霊のようだ。

参照文献:
  • 「メーモ スモッグの町(公害)」サムーチョン・トンパット著 緑の地球誌 12年第5号
  • 「チェンマイからメーモへ 盆地にある町の煙害」スジェーン・ガンパルット著 「魚が月を食べるとき」より
  • 「タイ発電公社敗訴 メーモに補償金一人24万 」 クルンテープ・トゥラキット紙 2009年3月5日

記事の日付:2009年12月29日