2011年12月16日金曜日

予言に反論 プミポンダムは決して壊れない

(プミポンダム - wikipedia より)

ソース
เขื่อนภูมิพลโต้ ไม่มีวันแตกได้ ตามที่ทำนาย

ここ数日というもの、インターネットの Facebook でさかんに飛び交っている噂がある。2012年の元旦にターク県サームガオ郡にあるプミポンダムが崩れることを、プラーブーという少年が38年前に予言したという話だ。この噂でターク県と、その周辺にあるガンペンペット県、ナコンサワン県の住民は驚いた。もしダムが崩れたら、この住民たちが住む地区に大量の水が流れこむことになる。ターク県庁には問い合わせの電話が殺到した。

サーマート・ローイファー ターク県知事は次のように語った。新年にプミポンダムが壊れると予言した、インターネットに流れているプラーブー少年の噂は、多くの人々をパニックに陥れている。家や田を売りお金を持って安全な場所へ逃げたいと、電話で相談してくる人もいる。皆さんにお願いしたい。噂を聞くときは冷静になってほしい。このようなことは起こりえない。プミポンダムが貯水量は多いことは事実だが、安全かつ十分な強度を持っており、7リクターの地震の振動にも耐えられる。いままで最大の地震は3リクターにすぎず、ダムは断層の上にあるわけでもないので、安心してほしい。噂に惑わされて土地を売って逃げる必要はない。

ナロン・タイプラユーン プミポンダム所長は次のように語った。地震が発生するのは非常に稀である。プミポンダムは、アメリカのフーバーダムを参考にして設計されたコンクリート・アーチ型ダムであり、全ての力は山 -ゲーオ山とタム山- にかかっている。揺れるときは山と一緒になって揺れる。山が壊れない限り、ダムも壊れることはない。

2011年10月20日木曜日

プミポンダム、緊急放水

ソース
'เขื่อนภูมิพล' เปิดประตูระบายน้ำฉุกเฉิน

(プミポンダム - wikipedia より)

プミポンダム所長は、発電機1台が故障したため、緊急放水口を開く必要があった。ただし、一日当りの放水量は依然として6,000万㎥であり、現在タイ中部にある水量には影響ない、と述べた…

プミポンダム所長ブンイン・チューンチュアリット氏は、10月20日、ターク県サームガオ郡で次のように述べた。現在、プミポンダムは緊急放水口をもう1回開き、放水量を増やしている。現在の発電機8台の最大処理能力は1日当たり6,000万㎥だが、このうちの1台が故障したために、1日当たり5,000万㎥しか放水できない。今は北部からのダムに流れ込む水の量が多いため、一日当り6,000万㎥を放水しなければならない。そこで緊急放水口を開き、1,000万㎥、すなわち故障した機械の分だけ放水する必要があった。

つまり、今も放水量は6,000万㎥のままである。また、ブンイン氏は次のように述べた。緊急放水口の最大放水量は5億㎥だが、今回開いたのは1回、1,000万㎥を放水しただけである。チャオプラヤー川流域の住民、ならびにタイ中部の住民には、プミポンダムがまた緊急放水口を開いたとのニュースに驚かれないようお願いしたい。

この6,000万㎥という放水量は、水は10日間をかけて下流に達するため、現在タイ中部で起きている洪水を悪化させるものではない。現在のプミポンダムの貯水位は259.95m、最高貯水位は260mで、貯水量は134億4,700万㎥、最大貯水量は134億6,200万㎥ であり、余裕は1,500万㎥、すなわち0.12%である。本日7,600万㎥の水が流入し、6,000万㎥を放水したことで、貯水量は上がりつつあるため、再度緊急放水口を開く必要があるかもしれない。ランパーン県から来るワン川の水位も上がっているため、ピン川の水量は2,500万㎥増加している、とブンイン氏は述べた。

2011年8月14日日曜日

チェン貨幣

英語 :Chiang money, Jiang money または Kakim money
タイ語:เงินเจียง または เงินขาคีม

ソース เงินเจียง


材質は銀、ラーンナー王朝で使用された。1世紀以上の長期に渡って一定の外形を保ち、タイ王国の北部、ラーンナー王朝、さらにはビルマ、ラオスで貨幣として用いられた。銀の含有率は貨幣重量の 85‐90% 程度で、貨幣ひとつづつにその鋳造場所が刻印されている。刻印には、セーン、ナーン、ルアン、ソーイ、ユワン、ロップファーンなどがある。各種の刻印からは、鋳造場所が10箇所以上存在していたことがわかる。また、チェン貨幣の側面にある刻印から、この種の貨幣が流通したのは400年以内であることもわかる。

チェン貨幣が都市により異なることは、支配地区名の刻印を観察すれば明らかである。しかし重量が 60-63g であることは共通しており、その価値は1タムルン(=4バーツ)に等しい。


チェン貨幣の刻印

チェン貨幣はスコータイの4バーツの重量を基準として鋳造された。両足には貨幣鋳造権者の記号と都市名が刻印され、末端にはチェン貨幣の貨幣価値が刻印されている。刻印の文字は、初期はスコータイ文字が使われていたが、後にはタイファクカーム文字 (อักษรไทยฝักขาม ランナー文字の前身) に置き換わった。

かつてのラーンナー王朝は50箇所以上の都市を支配していた。各都市は、決められた重量と外見を持ち両足に都市名を刻印したチェン貨幣を鋳造し、流通させることができた。ある複数の都市では同じ刻印を使用しており、これは親族関係にある人物が支配していたものと推測される。発見されるチェン貨幣の中で最も多いのは、刻印がチェンセーンとチェンマイのものである。この二つの都市は、かつてはラーンナー王朝の王都であった。


同一都市で鋳造されたチェン貨幣2個の比較。ただし刻印は異なっている。

本物のチェン貨幣には、片側に3つずつ刻印がある。刻印の大きさは同じくらいで、小さすぎることはない。


写真の左側にある刻印は、都市支配者の刻印である。王族の家系を継承しているかにより刻印は大きく異なる。

写真の右側にある刻印は、重量が4バーツ、すなわち1タムルンであることを示す。通常、足が2本のチェン貨幣は4バーツである。

真中にある刻印は、貨幣が鋳造された都市の名前を示す。例えば、「セーン」ならチェンセーンを意味し、「チョム」ならチェンマイ、ナーン、ユアンであり、「ルアン」ならルアンパバーンであろう。

訳注:ここ以外の情報にはルアンパバーンの記述がなく、かつてのラーンナー王国の支配はルアンパバーンまで及んでいないため、この記述は間違いかもしれない。チェンラーイの「ルアイ」と間違えた?


チェン貨幣の鑑定

現在、チェン貨幣を探すことは非常に困難である。市場におけるチェン貨幣の価格は、銀それ自体の価格の数倍になっているため、贋作を作り収集家を騙して販売する者がいる。純銀または大量のルピー硬貨をチェン貨幣と同じ4バーツに計量して、溶解して新しいチェン貨幣を鋳造し、模倣した刻印を両足に刻む (筆者はかつてチェン貨幣とルピー硬貨の銀純度を計測したことがある。その結果はほぼ同じ 90% であった)。


偽チェン貨幣の判別

複数の方法がある。基本的な方法は、重量と大きさを計ることである。これは特別な技量を必要としない。

次に有効な方法は、都市の刻印とチャクラの刻印の観察である。贋作はまだ完全に模倣できていない。市場に流通している本物の数が少ないために、贋作の進歩は非常に遅い。どれが本物でどれが贋作かを比較し、判別するにはそれなりの知識と経験が必要だが、一番良い方法は本物と並べることである。


切断と切込み

切断と切込みが、チェン貨幣が本物であることを証明する古代の方法だった。切り込みを入れることで、チェン貨幣の内部の材質を確認し、外側に銀メッキをしただけではないことがわかる。切り込みは、チェン貨幣の足に刻印を押した直後に、内部の材料を明らかにするために行われる。

筆者はこの部分をチェン貨幣の真贋を判断するために活用しており、それほど難しくはない。本来は切断により作られる切り込みの痕が、現代において鋳造されたチェン貨幣の贋作では、チェン貨幣の鋳造前から痕が作られている。つまり、切断または切り込みの目的を履き違えているわけだ。贋作のチェン貨幣では、切れ込み痕に鋭さがなく、また自然さに欠ける。本物の切れ込み痕は非常に鋭い。中央部の切れ込みは、チェン貨幣の側面、金属の表面にたった1回だけ強い力で刻まれる。下部の刻み目は、1回のみもしくは複数回刻まれる。

下側の表面付近に見られる、繊維の跡にも注目。この跡は各都市で使用した物質と溝掘りの方法によって異なる。下記に紹介する各都市のチェン貨幣から観察できる。


チェン貨幣の下側に「ルアン(ルアンパバーン)」の刻印がある。切断によってつけられた、このような痕跡がなければならない。


チェン貨幣の下側に「チョム(チェンマイ)」の刻印がある。切断によってつけられた、このような痕跡がなければならない。


チェン貨幣の下側に「セーン(チェンセーン)」の刻印がある。切断によってつけられた、このような痕跡がなければならない。


チェン貨幣の下側に「ソーイ」の刻印がある。切断によってつけられた、このような痕跡がなければならない。


チェン貨幣の下側に「ナーンまたはヌアン」の刻印がある。切断によってつけられた、このような痕跡がなければならない。


チェン貨幣の下側に「チョム(チェンマイ)」の刻印がある。切断によってつけられた、このような痕跡がなければならない。


大きさが半分のチェン貨幣

ときおり大きさが半分、もしくは足が1本しかないチェン貨幣を見かけることがある。これは、使用者が1/2タムルン=重さ2バーツ分だけ支払う必要があったことを意味する。重量は 29-32グラムで、その貨幣の状態により差がある。さらには、1/4タムルンのチェン貨幣が見つかることもある。これは1バーツ分だけ支払う必要があったことを意味する。


1/2タムルン=2バーツのチェン貨幣。チェンセーン製。


1/4タムルン=1バーツのチェン貨幣。


他の原料を使ったチェン貨幣

他の原料で鋳造された古いチェン貨幣は、素焼きまたは鉛で作られ、銀メッキはされていない。鋳造された目的は貨幣ではなく、結婚する新郎新婦への記念硬貨であったり、タイ北部で精霊へのお供え物であることが多い。ラーンナーの時代には、儀式を執り行ったチェン貨幣を家の塀と都市の外壁の中心に埋め、悪霊やお化けの危険を防ごうとする人もいた。


銀以外の原料で鋳造されたチェン貨幣は、通常のチェン貨幣と同じ大きさだが、重さは軽い。表面には都市名と刻印の代わりに模様が刻まれている。記念硬貨として、または古代の人々が信じる悪霊を防ぐ儀式などで使うことを目的としている。


このチェン貨幣は、普通のチェン貨幣よりも小さい。上と同じく儀式で使われた。


贋金

代金の決済に貨幣が用いられるようになると同時に、贋金作りの鋳造も始まった。王朝の発行する貨幣に贋金が流入すると、王朝の貨幣への信用も低下した。

贋金作りにはさまざまな方法がある。本物と全く同じ模倣品を新たに作ることもあるが、古代における一般的な贋金は、品質の劣った材料で作られ、表面を銀メッキすることで、より価格の高い銀に見せかけている。しかし内部は錫、銅、鉛である。

古代の石碑「マンラーイサート」には、贋金を作った者に対する刑罰が次のように刻まれている。

金、銀、銅、貨幣刻印を偽造した者は死刑に処し、家族を逮捕拘束すべし。その方法を知る者及び贋銀を偽造し使用した者は死刑に処すべし。命を奪わない場合は財産を王家が没収する。(以下訳略)


参考文献
ナワラット・レーカクン著 「貨幣 バーツ 硬貨 紙幣」 2004年第3版

訳注:ここにチェン貨幣の一覧がある。

2011年7月18日月曜日

弾丸硬貨


(弾丸硬貨 - タイ中央銀行のウェブサイトより)


弾丸硬貨とは、かつてのタイ王国において、スコータイ王朝からアユタヤ王朝、チャクリー王朝まで、約600年の長期にわたり流通した貨幣である。貨幣価値に見合った重量の純銀の棒の両端を、内側に折り曲げて作られる。外観が火縄銃の弾丸とよく似ているため、英語では Bullet Coin と呼ばれる。

スコータイ王朝は弾丸硬貨の鋳造権を独占しなかったため、銀の重量と大きさは多種多様である。後のアユタヤ王朝は一般による貨幣の鋳造を禁じたため、弾丸硬貨は規格化され、2つの重要な刻印、すなわち王朝印と王印が刻まれた。弾丸硬貨は長期に渡って流通したが、ラーマ4世の時代になると商業が発展して貨幣の需要が増加し、人力で鋳造していた弾丸硬貨の供給が不足し始めた。貨幣を鋳造する必要に迫られたラーマ4世は、硬貨製造機の輸入を命じたが、弾丸硬貨の流通は依然として認めた。弾丸硬貨は1904年10月20日に廃止され、欧州と同じ円盤状の硬貨がタイ王国の貨幣になった。

検索用:弾丸コイン、弾丸貨幣、Pot Duang、弾丸形貨

2011年6月9日木曜日

空軍、世界大戦の戦闘機を発掘


ソース
ทอ.ยุติขุดหาบินรบสมัยสงครามโลก キャッシュ

空軍文書局長が第二次世界大戦当時の飛行機 P-51D マスタングの調査を終えたと、大量の部品発掘後に発表。失われた部品はすでに地元住民が持ち去ったか…

記者の報告によると、6月9日、空軍文書局長チンチャート・ブンコン少佐と空軍兵士数十名は、P-51D マスタングの残骸に関する調査を終えた。この飛行機はかつて "2 Air Commando Group" に所属し、第二次世界大戦当時の1945年4月9日にドンムアン空港とナコンパトム県トンサムロング空港を攻撃している。機は、ベンジャマート・アコンデートデーチャーチャイさんが所有する、パトゥムターニー県ラートルームケーオ郡クーバーンルアン区5番地パトゥムターニー・ラートルームケーオ通り周辺の空地に埋没していたのを、ラートルームケーオ郡長ナリン・ワンナマヒン氏が協力して調査を行った。この土地のかつての持ち主が、ここで飛行機を見たことがあるとの噂があった。

空軍文書局長チンチャート少佐は次のように述べた。
「空軍兵士が地面を掘り進めていったところ、今日になって飛行機の部品を発見することができた。見つかった部品は、完全に原型を留めている大型プロペラ3枚、番号 615851 (USA) 24N PE604 が付いた大型エンジンで、他にもさまざまな部品の破片が大量に見つかった。本体には主翼があるが、尾翼はまだ見つかっていない。見つからない部品は脱落したか、もしくは噂されているように住民が持ち去ったものと思われる。担当者と専門家が金属探知機で探しても見つからなかったため、以後の調査は行わない予定だ」

今回の調査では労力に見合った残骸が発見されており、今後は空軍博物館へ移送、保管され、学生や一般市民に向け展示される予定である。

2011年6月3日金曜日

大きさ3メートル以上の巨大エイ、チャオプラヤー川岸に出現!

(ヒマンチュラ・チャオプラヤの標本 - wikipediaより)

ソース
ชาวบ้านตื่นปลากระเบนยักษ์ยาวกว่า3เมตรโผล่ริมแม่น้ำ キャッシュ

巨大エイがチャオプラヤー川岸に出現して住民は仰天。死ぬ寸前で息も絶えだえ。パトゥムターニー県知事の予想では砂糖運搬船の転覆が原因。エイは岸辺に泳ぎ着き、漁業組合はそれを水に戻したが…


6月2日21:00、本紙記者はパトゥムターニー県サームコーク郡クローンクワーム区に住む市民からの連絡を受けた。巨大なエイが家の下の水路に浮かんでおり、近所の住民と協力して捕まえたという。知らせを受けた記者は急いで現場に赴いた。

現場に着くと、そこには多くの人が集まってエイを見物していた。検証の結果、見つかったのは巨大なエイで、頭から尻尾までの長さは3メートル以上、胴体の幅は約2メートル、重さは400kg以上であることがわかった。集まった人々は手にした携帯電話で写真を撮影し、写真に撮った巨大エイを眺めていた。これほど大きなエイは、誰も見たことがないと言う。

取材を行い、近所に住むアンポーン・ホントーンさん(32歳女性)に話を伺った。
「この巨大エイが川に浮いているのを見たのは今日の夕方頃でしたけど、そのときは何とも思いませんでした。ところが22時頃になって、家の下にある水路へ行ってみると、このエイが浮いていたんです。そこで近所の人を呼んできて、みんなで一緒になって捕まえました。それから県の漁業組合に連絡して、エイを助けてほしいとお願いしました。だいぶ弱っていましたから」

23時半になり、パトゥムターニー県知事ウィラサック・ヒンムアンガオ氏と、パトゥムターニー県漁業組合タノン・タケーオトッサポン氏が現場を訪れたが、エイを救うことはできなかった。このエイはその後まもなく死んでしまったのである。パトゥムターニー県知事は次のように語った。
「このエイが浅瀬に上がってきたのは、アユタヤ県で起こった砂糖運搬船の転覆が原因だろう。その影響でエビ、貝、カニ、魚すべてが岸に上がろうとして命を失っている。エイの死骸は住民から譲り受け、パトゥムターニー県漁業組合が預かり、サームコーク郡漁業局で保存する予定だ」

#訳注:この巨大エイは「ヒマンチュラ・チャオプラヤ」というそうです。詳しくはWikiの淡水エイを参照。

2011年3月17日木曜日

ベトナムに史上初の降雪 津波の影響か

ソース
ฮือฮา!หิมะตกเวียดนามครั้งแรกในประวัติศาสตร์ คาดอาจเกี่ยวสึนามิ キャッシュ

ベトナム北部サパの町に初めての降雪。ベトナム全土の住民がびっくり。日本の地震と津波の影響?

外国通信社の報道によると、3月17日、ベトナム北部にある有名な観光地サパの町で、初めての降雪が観測された。ベトナム全土の住民からは驚きの声があがり、一夜明けると全世界の大ニュースになった。

報道によると、異変が起きたのは3月16日の早朝で、サパの町に初めて雪が降った。サパの町はベトナム屈指の観光地であり、ベトナムの北部ラオカイ省にあり、中国の国境近くに位置する。

ラオカイ省天気予報局ファーム・グアン・ホー局長によると、現地時間16日午前5時ころからサパの町に雪が降り始めた。この地方に雪が降るのはこれが初めてで、9時15分頃になると、降り積もった雪の厚さは2.5センチになった。

「今回の降雪にはみんなビックリしました。自分の目で雪を見ようと、たくさんの人々が道路に出てきました」とファーム・グアン・ホー局長は語った。

3月11日に日本本州でマグニチュード9の地震と津波が起きてからというもの、世界各地で異常気象が発生しているとの報告がある。ベトナムの首都ハノイでは、日中の気温は11度まで下がり、16日の夜には9度まで下がった。