ソース
งมแม่น้ำชุมพรพบอีก'กระดิ่งเทพพนม' จนท.ตรวจสอบยันเก่าจริง
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チュムポーン川の底で発見されたラマ5世の古銭で目覚めた地元住民が、続々と現地にやってきた。そしてついに青銅製の「合掌する天使の鈴」を発見!副郡長・県文化局が鑑定し、本物であることを確認。詳細を芸術局に連絡し、事実関係を確認する。知らせを聞いて駆けつけたバンコクの人が、1万バーツで古銭の買取を申し入れ…
多くの地元住民がラマ5世の古銭を探しにチュムポーン川へやって来た。場所はチュムポーン県ムアン郡コングラティン区6番地、チュムポーン県にある有名なお寺プラクワーン寺からおよそ200メートル離れたところである。知らせは燎原の火のように広がり、3月26日には県と近隣県から多くの人がひと目見ようと当地を訪れ、またある人は上記の場所で川を浚いラマ5世時代の古銭を探した。ラマ5世の古銭や、その他にも価値ある骨董品がまだまだ川の底には眠っており、例えば近所に住むプワン・サイスチョンさん(73歳・女性)は、川を浚ってラマ5世の古銭1枚と青銅製の鈴を発見した。この鈴は内径1インチで、横には合掌する天使の像が彫られており、その意匠はとても美しい。チュムポーン県内や他県からやって来たプラクルアンの鑑定家や骨董収集家が代価1-2万バーツでの買取を申し入れたが、プワンさんは売らずに取っておき仏前に供えたいとのこと。
その後10時半、チュンポーン県ムアン郡長代理兼チュンポーン県芸術局係官チョンガーン・ティッププラスートスック氏がチュンポーン川の現地を訪れた。この川は水位が下がり始めており、中洲や浅瀬が水面上に顔を出している。これは乾季によるもので、水位は平均30~110cmほどと極めて低い。川の中には老若男女の村人が100人ほど来ており、ラマ5世時代の古銭を探して忙しそうに水に潜っていた。
チョンガーン氏は次のように述べた。調査の結果、地元の人が見つけたラマ5世の古銭は、非常に古い硬貨であり100年以上昔のものとわかった。硬貨の材質を観察したところ非常に古いものであり、現代で鋳造される硬貨とはかけ離れたものであることがその理由である。しかし何年頃のものかはよくわからない。見たところ、新しく見せかけるために古銭を研磨する人がいるようだが、古銭を見つけた人や、古銭を保管している人には、研磨しないことをお願いしたい。現在芸術局に連絡を取り、ラマ5世の古銭が見つかったこの場所にどのような歴史や由来があるのか調査するよう依頼しており、研磨しなければその調査に役立てられる。
バンコク都サパーンスーン地区サパーンスーン区ラムカムヘン通り99/135番地に住むサムルワット・リウパットムワンさん(52歳・男性)は次のように語った。自分は報道でこのニュースを知り、自分の目で見るために車を運転して現地に向かった。自分は骨董品の収集家でこの話に非常に興味を持ったためで、実際に自分の目で見ると、古銭は摩耗しており、長い期間川底に沈んでいたため腐食し、薄くなっているように思えたが、本当に古いものであることは確認すると、古銭を所有したい気持ちが湧いてきた。約1万バーツで古銭1枚を手に入れることができてとても嬉しい。
この地域を流れるチュムポーン川は非常に古い川で、タイ・ミャンマー国境にあるクラブリー山を水源としている。アンダマン海側はラノーン県クラブリー郡パークチャン区で、水はチュムポーン県を通りタイ湾に注がれる。川の途中には転覆したジャンク船が沈んでおり、以前にチュムポーン県ムアン郡を掘ったときには、銅鼓、とんぼ玉、花瓶など多くの骨董品が出土した。発掘品はチュムポーン県の国立博物館に展示されている。
2012年3月27日火曜日
2011年8月14日日曜日
チェン貨幣
英語 :Chiang money, Jiang money または Kakim money
タイ語:เงินเจียง または เงินขาคีม
ソース เงินเจียง
材質は銀、ラーンナー王朝で使用された。1世紀以上の長期に渡って一定の外形を保ち、タイ王国の北部、ラーンナー王朝、さらにはビルマ、ラオスで貨幣として用いられた。銀の含有率は貨幣重量の 85‐90% 程度で、貨幣ひとつづつにその鋳造場所が刻印されている。刻印には、セーン、ナーン、ルアン、ソーイ、ユワン、ロップファーンなどがある。各種の刻印からは、鋳造場所が10箇所以上存在していたことがわかる。また、チェン貨幣の側面にある刻印から、この種の貨幣が流通したのは400年以内であることもわかる。
チェン貨幣が都市により異なることは、支配地区名の刻印を観察すれば明らかである。しかし重量が 60-63g であることは共通しており、その価値は1タムルン(=4バーツ)に等しい。
チェン貨幣の刻印
チェン貨幣はスコータイの4バーツの重量を基準として鋳造された。両足には貨幣鋳造権者の記号と都市名が刻印され、末端にはチェン貨幣の貨幣価値が刻印されている。刻印の文字は、初期はスコータイ文字が使われていたが、後にはタイファクカーム文字 (อักษรไทยฝักขาม ランナー文字の前身) に置き換わった。
かつてのラーンナー王朝は50箇所以上の都市を支配していた。各都市は、決められた重量と外見を持ち両足に都市名を刻印したチェン貨幣を鋳造し、流通させることができた。ある複数の都市では同じ刻印を使用しており、これは親族関係にある人物が支配していたものと推測される。発見されるチェン貨幣の中で最も多いのは、刻印がチェンセーンとチェンマイのものである。この二つの都市は、かつてはラーンナー王朝の王都であった。
同一都市で鋳造されたチェン貨幣2個の比較。ただし刻印は異なっている。
本物のチェン貨幣には、片側に3つずつ刻印がある。刻印の大きさは同じくらいで、小さすぎることはない。
写真の左側にある刻印は、都市支配者の刻印である。王族の家系を継承しているかにより刻印は大きく異なる。
写真の右側にある刻印は、重量が4バーツ、すなわち1タムルンであることを示す。通常、足が2本のチェン貨幣は4バーツである。
真中にある刻印は、貨幣が鋳造された都市の名前を示す。例えば、「セーン」ならチェンセーンを意味し、「チョム」ならチェンマイ、ナーン、ユアンであり、「ルアン」ならルアンパバーンであろう。
訳注:ここ以外の情報にはルアンパバーンの記述がなく、かつてのラーンナー王国の支配はルアンパバーンまで及んでいないため、この記述は間違いかもしれない。チェンラーイの「ルアイ」と間違えた?
チェン貨幣の鑑定
現在、チェン貨幣を探すことは非常に困難である。市場におけるチェン貨幣の価格は、銀それ自体の価格の数倍になっているため、贋作を作り収集家を騙して販売する者がいる。純銀または大量のルピー硬貨をチェン貨幣と同じ4バーツに計量して、溶解して新しいチェン貨幣を鋳造し、模倣した刻印を両足に刻む (筆者はかつてチェン貨幣とルピー硬貨の銀純度を計測したことがある。その結果はほぼ同じ 90% であった)。
偽チェン貨幣の判別
複数の方法がある。基本的な方法は、重量と大きさを計ることである。これは特別な技量を必要としない。
次に有効な方法は、都市の刻印とチャクラの刻印の観察である。贋作はまだ完全に模倣できていない。市場に流通している本物の数が少ないために、贋作の進歩は非常に遅い。どれが本物でどれが贋作かを比較し、判別するにはそれなりの知識と経験が必要だが、一番良い方法は本物と並べることである。
切断と切込み
切断と切込みが、チェン貨幣が本物であることを証明する古代の方法だった。切り込みを入れることで、チェン貨幣の内部の材質を確認し、外側に銀メッキをしただけではないことがわかる。切り込みは、チェン貨幣の足に刻印を押した直後に、内部の材料を明らかにするために行われる。
筆者はこの部分をチェン貨幣の真贋を判断するために活用しており、それほど難しくはない。本来は切断により作られる切り込みの痕が、現代において鋳造されたチェン貨幣の贋作では、チェン貨幣の鋳造前から痕が作られている。つまり、切断または切り込みの目的を履き違えているわけだ。贋作のチェン貨幣では、切れ込み痕に鋭さがなく、また自然さに欠ける。本物の切れ込み痕は非常に鋭い。中央部の切れ込みは、チェン貨幣の側面、金属の表面にたった1回だけ強い力で刻まれる。下部の刻み目は、1回のみもしくは複数回刻まれる。
下側の表面付近に見られる、繊維の跡にも注目。この跡は各都市で使用した物質と溝掘りの方法によって異なる。下記に紹介する各都市のチェン貨幣から観察できる。
チェン貨幣の下側に「ルアン(ルアンパバーン)」の刻印がある。切断によってつけられた、このような痕跡がなければならない。
チェン貨幣の下側に「チョム(チェンマイ)」の刻印がある。切断によってつけられた、このような痕跡がなければならない。
チェン貨幣の下側に「セーン(チェンセーン)」の刻印がある。切断によってつけられた、このような痕跡がなければならない。
チェン貨幣の下側に「ソーイ」の刻印がある。切断によってつけられた、このような痕跡がなければならない。
チェン貨幣の下側に「ナーンまたはヌアン」の刻印がある。切断によってつけられた、このような痕跡がなければならない。
チェン貨幣の下側に「チョム(チェンマイ)」の刻印がある。切断によってつけられた、このような痕跡がなければならない。
大きさが半分のチェン貨幣
ときおり大きさが半分、もしくは足が1本しかないチェン貨幣を見かけることがある。これは、使用者が1/2タムルン=重さ2バーツ分だけ支払う必要があったことを意味する。重量は 29-32グラムで、その貨幣の状態により差がある。さらには、1/4タムルンのチェン貨幣が見つかることもある。これは1バーツ分だけ支払う必要があったことを意味する。
1/2タムルン=2バーツのチェン貨幣。チェンセーン製。
1/4タムルン=1バーツのチェン貨幣。
他の原料を使ったチェン貨幣
他の原料で鋳造された古いチェン貨幣は、素焼きまたは鉛で作られ、銀メッキはされていない。鋳造された目的は貨幣ではなく、結婚する新郎新婦への記念硬貨であったり、タイ北部で精霊へのお供え物であることが多い。ラーンナーの時代には、儀式を執り行ったチェン貨幣を家の塀と都市の外壁の中心に埋め、悪霊やお化けの危険を防ごうとする人もいた。
銀以外の原料で鋳造されたチェン貨幣は、通常のチェン貨幣と同じ大きさだが、重さは軽い。表面には都市名と刻印の代わりに模様が刻まれている。記念硬貨として、または古代の人々が信じる悪霊を防ぐ儀式などで使うことを目的としている。
このチェン貨幣は、普通のチェン貨幣よりも小さい。上と同じく儀式で使われた。
贋金
代金の決済に貨幣が用いられるようになると同時に、贋金作りの鋳造も始まった。王朝の発行する貨幣に贋金が流入すると、王朝の貨幣への信用も低下した。
贋金作りにはさまざまな方法がある。本物と全く同じ模倣品を新たに作ることもあるが、古代における一般的な贋金は、品質の劣った材料で作られ、表面を銀メッキすることで、より価格の高い銀に見せかけている。しかし内部は錫、銅、鉛である。
古代の石碑「マンラーイサート」には、贋金を作った者に対する刑罰が次のように刻まれている。
金、銀、銅、貨幣刻印を偽造した者は死刑に処し、家族を逮捕拘束すべし。その方法を知る者及び贋銀を偽造し使用した者は死刑に処すべし。命を奪わない場合は財産を王家が没収する。(以下訳略)
参考文献
ナワラット・レーカクン著 「貨幣 バーツ 硬貨 紙幣」 2004年第3版
訳注:ここにチェン貨幣の一覧がある。
タイ語:เงินเจียง または เงินขาคีม
ソース เงินเจียง
材質は銀、ラーンナー王朝で使用された。1世紀以上の長期に渡って一定の外形を保ち、タイ王国の北部、ラーンナー王朝、さらにはビルマ、ラオスで貨幣として用いられた。銀の含有率は貨幣重量の 85‐90% 程度で、貨幣ひとつづつにその鋳造場所が刻印されている。刻印には、セーン、ナーン、ルアン、ソーイ、ユワン、ロップファーンなどがある。各種の刻印からは、鋳造場所が10箇所以上存在していたことがわかる。また、チェン貨幣の側面にある刻印から、この種の貨幣が流通したのは400年以内であることもわかる。
チェン貨幣が都市により異なることは、支配地区名の刻印を観察すれば明らかである。しかし重量が 60-63g であることは共通しており、その価値は1タムルン(=4バーツ)に等しい。
チェン貨幣の刻印
チェン貨幣はスコータイの4バーツの重量を基準として鋳造された。両足には貨幣鋳造権者の記号と都市名が刻印され、末端にはチェン貨幣の貨幣価値が刻印されている。刻印の文字は、初期はスコータイ文字が使われていたが、後にはタイファクカーム文字 (อักษรไทยฝักขาม ランナー文字の前身) に置き換わった。
かつてのラーンナー王朝は50箇所以上の都市を支配していた。各都市は、決められた重量と外見を持ち両足に都市名を刻印したチェン貨幣を鋳造し、流通させることができた。ある複数の都市では同じ刻印を使用しており、これは親族関係にある人物が支配していたものと推測される。発見されるチェン貨幣の中で最も多いのは、刻印がチェンセーンとチェンマイのものである。この二つの都市は、かつてはラーンナー王朝の王都であった。
同一都市で鋳造されたチェン貨幣2個の比較。ただし刻印は異なっている。
本物のチェン貨幣には、片側に3つずつ刻印がある。刻印の大きさは同じくらいで、小さすぎることはない。
写真の左側にある刻印は、都市支配者の刻印である。王族の家系を継承しているかにより刻印は大きく異なる。
写真の右側にある刻印は、重量が4バーツ、すなわち1タムルンであることを示す。通常、足が2本のチェン貨幣は4バーツである。
真中にある刻印は、貨幣が鋳造された都市の名前を示す。例えば、「セーン」ならチェンセーンを意味し、「チョム」ならチェンマイ、ナーン、ユアンであり、「ルアン」ならルアンパバーンであろう。
訳注:ここ以外の情報にはルアンパバーンの記述がなく、かつてのラーンナー王国の支配はルアンパバーンまで及んでいないため、この記述は間違いかもしれない。チェンラーイの「ルアイ」と間違えた?
チェン貨幣の鑑定
現在、チェン貨幣を探すことは非常に困難である。市場におけるチェン貨幣の価格は、銀それ自体の価格の数倍になっているため、贋作を作り収集家を騙して販売する者がいる。純銀または大量のルピー硬貨をチェン貨幣と同じ4バーツに計量して、溶解して新しいチェン貨幣を鋳造し、模倣した刻印を両足に刻む (筆者はかつてチェン貨幣とルピー硬貨の銀純度を計測したことがある。その結果はほぼ同じ 90% であった)。
偽チェン貨幣の判別
複数の方法がある。基本的な方法は、重量と大きさを計ることである。これは特別な技量を必要としない。
次に有効な方法は、都市の刻印とチャクラの刻印の観察である。贋作はまだ完全に模倣できていない。市場に流通している本物の数が少ないために、贋作の進歩は非常に遅い。どれが本物でどれが贋作かを比較し、判別するにはそれなりの知識と経験が必要だが、一番良い方法は本物と並べることである。
切断と切込み
切断と切込みが、チェン貨幣が本物であることを証明する古代の方法だった。切り込みを入れることで、チェン貨幣の内部の材質を確認し、外側に銀メッキをしただけではないことがわかる。切り込みは、チェン貨幣の足に刻印を押した直後に、内部の材料を明らかにするために行われる。
筆者はこの部分をチェン貨幣の真贋を判断するために活用しており、それほど難しくはない。本来は切断により作られる切り込みの痕が、現代において鋳造されたチェン貨幣の贋作では、チェン貨幣の鋳造前から痕が作られている。つまり、切断または切り込みの目的を履き違えているわけだ。贋作のチェン貨幣では、切れ込み痕に鋭さがなく、また自然さに欠ける。本物の切れ込み痕は非常に鋭い。中央部の切れ込みは、チェン貨幣の側面、金属の表面にたった1回だけ強い力で刻まれる。下部の刻み目は、1回のみもしくは複数回刻まれる。
下側の表面付近に見られる、繊維の跡にも注目。この跡は各都市で使用した物質と溝掘りの方法によって異なる。下記に紹介する各都市のチェン貨幣から観察できる。
チェン貨幣の下側に「ルアン(ルアンパバーン)」の刻印がある。切断によってつけられた、このような痕跡がなければならない。
チェン貨幣の下側に「チョム(チェンマイ)」の刻印がある。切断によってつけられた、このような痕跡がなければならない。
チェン貨幣の下側に「セーン(チェンセーン)」の刻印がある。切断によってつけられた、このような痕跡がなければならない。
チェン貨幣の下側に「ソーイ」の刻印がある。切断によってつけられた、このような痕跡がなければならない。
チェン貨幣の下側に「ナーンまたはヌアン」の刻印がある。切断によってつけられた、このような痕跡がなければならない。
チェン貨幣の下側に「チョム(チェンマイ)」の刻印がある。切断によってつけられた、このような痕跡がなければならない。
大きさが半分のチェン貨幣
ときおり大きさが半分、もしくは足が1本しかないチェン貨幣を見かけることがある。これは、使用者が1/2タムルン=重さ2バーツ分だけ支払う必要があったことを意味する。重量は 29-32グラムで、その貨幣の状態により差がある。さらには、1/4タムルンのチェン貨幣が見つかることもある。これは1バーツ分だけ支払う必要があったことを意味する。
1/2タムルン=2バーツのチェン貨幣。チェンセーン製。
1/4タムルン=1バーツのチェン貨幣。
他の原料を使ったチェン貨幣
他の原料で鋳造された古いチェン貨幣は、素焼きまたは鉛で作られ、銀メッキはされていない。鋳造された目的は貨幣ではなく、結婚する新郎新婦への記念硬貨であったり、タイ北部で精霊へのお供え物であることが多い。ラーンナーの時代には、儀式を執り行ったチェン貨幣を家の塀と都市の外壁の中心に埋め、悪霊やお化けの危険を防ごうとする人もいた。
銀以外の原料で鋳造されたチェン貨幣は、通常のチェン貨幣と同じ大きさだが、重さは軽い。表面には都市名と刻印の代わりに模様が刻まれている。記念硬貨として、または古代の人々が信じる悪霊を防ぐ儀式などで使うことを目的としている。
このチェン貨幣は、普通のチェン貨幣よりも小さい。上と同じく儀式で使われた。
贋金
代金の決済に貨幣が用いられるようになると同時に、贋金作りの鋳造も始まった。王朝の発行する貨幣に贋金が流入すると、王朝の貨幣への信用も低下した。
贋金作りにはさまざまな方法がある。本物と全く同じ模倣品を新たに作ることもあるが、古代における一般的な贋金は、品質の劣った材料で作られ、表面を銀メッキすることで、より価格の高い銀に見せかけている。しかし内部は錫、銅、鉛である。
古代の石碑「マンラーイサート」には、贋金を作った者に対する刑罰が次のように刻まれている。
金、銀、銅、貨幣刻印を偽造した者は死刑に処し、家族を逮捕拘束すべし。その方法を知る者及び贋銀を偽造し使用した者は死刑に処すべし。命を奪わない場合は財産を王家が没収する。(以下訳略)
参考文献
ナワラット・レーカクン著 「貨幣 バーツ 硬貨 紙幣」 2004年第3版
訳注:ここにチェン貨幣の一覧がある。
2011年7月18日月曜日
弾丸硬貨
(弾丸硬貨 - タイ中央銀行のウェブサイトより)
弾丸硬貨とは、かつてのタイ王国において、スコータイ王朝からアユタヤ王朝、チャクリー王朝まで、約600年の長期にわたり流通した貨幣である。貨幣価値に見合った重量の純銀の棒の両端を、内側に折り曲げて作られる。外観が火縄銃の弾丸とよく似ているため、英語では Bullet Coin と呼ばれる。
スコータイ王朝は弾丸硬貨の鋳造権を独占しなかったため、銀の重量と大きさは多種多様である。後のアユタヤ王朝は一般による貨幣の鋳造を禁じたため、弾丸硬貨は規格化され、2つの重要な刻印、すなわち王朝印と王印が刻まれた。弾丸硬貨は長期に渡って流通したが、ラーマ4世の時代になると商業が発展して貨幣の需要が増加し、人力で鋳造していた弾丸硬貨の供給が不足し始めた。貨幣を鋳造する必要に迫られたラーマ4世は、硬貨製造機の輸入を命じたが、弾丸硬貨の流通は依然として認めた。弾丸硬貨は1904年10月20日に廃止され、欧州と同じ円盤状の硬貨がタイ王国の貨幣になった。
検索用:弾丸コイン、弾丸貨幣、Pot Duang、弾丸形貨
検索用:弾丸コイン、弾丸貨幣、Pot Duang、弾丸形貨
2011年6月9日木曜日
空軍、世界大戦の戦闘機を発掘
ソース
ทอ.ยุติขุดหาบินรบสมัยสงครามโลก キャッシュ
空軍文書局長が第二次世界大戦当時の飛行機 P-51D マスタングの調査を終えたと、大量の部品発掘後に発表。失われた部品はすでに地元住民が持ち去ったか…
記者の報告によると、6月9日、空軍文書局長チンチャート・ブンコン少佐と空軍兵士数十名は、P-51D マスタングの残骸に関する調査を終えた。この飛行機はかつて "2 Air Commando Group" に所属し、第二次世界大戦当時の1945年4月9日にドンムアン空港とナコンパトム県トンサムロング空港を攻撃している。機は、ベンジャマート・アコンデートデーチャーチャイさんが所有する、パトゥムターニー県ラートルームケーオ郡クーバーンルアン区5番地パトゥムターニー・ラートルームケーオ通り周辺の空地に埋没していたのを、ラートルームケーオ郡長ナリン・ワンナマヒン氏が協力して調査を行った。この土地のかつての持ち主が、ここで飛行機を見たことがあるとの噂があった。
空軍文書局長チンチャート少佐は次のように述べた。
「空軍兵士が地面を掘り進めていったところ、今日になって飛行機の部品を発見することができた。見つかった部品は、完全に原型を留めている大型プロペラ3枚、番号 615851 (USA) 24N PE604 が付いた大型エンジンで、他にもさまざまな部品の破片が大量に見つかった。本体には主翼があるが、尾翼はまだ見つかっていない。見つからない部品は脱落したか、もしくは噂されているように住民が持ち去ったものと思われる。担当者と専門家が金属探知機で探しても見つからなかったため、以後の調査は行わない予定だ」
今回の調査では労力に見合った残骸が発見されており、今後は空軍博物館へ移送、保管され、学生や一般市民に向け展示される予定である。
2010年9月14日火曜日
唐辛子の伝来史
ソース
ประวัติความเป็นมาของพริก
タイでは唐辛子の栽培法が知られており、その食べ方についても、生のままだったり、乾燥や発酵させたり、炒め物やスープなど、幾通りもの方法を知られている。一般的に唐辛子は2つの種類に分けられ、小粒庭唐辛子やタイ小粒唐辛子、黄色唐辛子といったとても辛い種類と、ピーマンや大唐辛子などのあまり辛くない種類がある。
普段からあまりにも唐辛子に慣れすぎているため、唐辛子はタイ原産の食べ物だと勘違いしてしまうかもしれない。しかし植物歴史学者によると、唐辛子の原産地は中南米であり、探検家が唐辛子をヨーロッパに持ち込み、そこから世界中へと広まっていった。
考古学の調査によると、メキシコ先住民は9,000年前から唐辛子を食用にしていた。その証拠として、ワカ・プリエタという土地で発掘された大便の化石の中から、約9,000年前の唐辛子の種が見つかっている。オルメック人、トルメック人、アステカ人といった人々の生活様式を研究した結果、これら先住民族は唐辛子を栽培し、食用にしていたことがわかっている。この他にも、歴史学者はペルー近辺で2,000年以上古い唐辛子の木を発掘しており、それ以外にも、1,900年前にペルーに住んでいた先住民の服の刺繍には、唐辛子の木の模様がある。
歴史学者ピーター・マーターは1493年の記録で、コロンブスがアメリカから持ち帰った赤唐辛子は味が辛い、と書いている。1494年、コロンブスの第2回目の航海に同行した医師は、アメリカ先住民は唐辛子を使った料理を好むと記している。スペイン軍がアステカ王国を侵略した際、コルテスは手紙に、アステカ王は唐辛子を混ぜた食事を召し上がる、と書いている。
唐辛子の最大の特徴は辛い味だ。先住民はこの強力な力を捕虜や敵を苦しめるために用いた。大量の唐辛子を燃やし、スペイン軍に向けて唐辛子の煙を浴びせて苦しめた。マヤ族には風習があり、マヤ族の女性が隠れて男性を見ていた場合は目に唐辛子を擦りつけ、娘が伝統に反し貞操を失ったことを父母が知ったときは「秘所」に唐辛子を塗った。アンティルにいた先住民のカリブ族は男の子が怪我をしたとき、傷に唐辛子を塗って忍耐心を鍛えた。またこの部族は捕虜を得ると火の付いた棒で突ついて火傷を負わせて唐辛子を塗り、捕虜が力尽きるとその肉を薄く削ぎ唐辛子で味付けし食料にした。
スペイン王フィリップ2世の侍医だった歴史学者フランシスコ・ヘルナンデスは、植物と動物の自然を調査するために新大陸(アメリカ)へと送られ、その報告の中で先住民は唐辛子の栽培を非常に好むと述べている。15世紀から16世紀にかけ、50年間にわたってアメリカ大陸を研究したベルナベ・コボは、メキシコ先住民にも同じく唐辛子を栽培する習慣があると述べている。彼の著作「ヒストリア」によると、先住民は唐辛子をトウモロコシに次ぐ大事な植物とみなしており、唐辛子を生食し、神を祀る全ての儀式で唐辛子を用いた。しかし断食の時期になるとこの先住民は唐辛子を含んだ食べ物を全く口にしなかった。さらにコボの記録によると、唐辛子の実だけに限らず唐辛子の葉も食用になるという。スペイン貴族の子孫ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガによると、先住民は唐辛子を非常に価値のある果物と考えており、インカの料理には多少なりとも唐辛子が入っている。また先住民の医者は、適量の唐辛子を摂った者は胃腸の具合が正常だが、大量に摂りすぎると危険な状態になると考えていた。ドイツ人学者アレクサンダー・フォン・フンボルトもまたアメリカ大陸に渡り長期間の研究を行った一人であり、ヨーロッパ人が塩を生命に不可欠な存在とみなすのに対し、先住民はそれと同様に唐辛子を重視していると比べている。
唐辛子がアメリカ大陸から海外へ広がった歴史を調べると、1493年に初めて唐辛子を自国へ持ち帰ったスペイン人、アルバレス・チャンカに行き当たる。南アメリカで唐辛子が栽培されていた国の名前がチリだったことから、スペイン人は唐辛子をチリと呼ぶようになった。それから55年後には英国人も唐辛子を知るようになり、1555年にはヨーロッパ全域で唐辛子の栽培が始まった。1750年頃、ポルトガル人によって唐辛子はインドと東南アジアへと広がっていく。
生物学者によれば、唐辛子はナスやタバコと同じナス科に分類される。唐辛子の学名は Capsicum annum で、語源は腐食させるという意味の Kapto である。しかし一部の言語学者は本来の語根は箱を意味する Caspa であると主張しており、何が元になったかの意見は分かれている。いずれにせよ唐辛子が辛いことは誰もが認めるところで、マヤ人は唐辛子を口から息を吸うという意味の Huuyub と呼んでいた。薬学師による唐辛子の研究では、唐辛子を口に入れると、過去に医師がさまざまな病気の治療に、唐辛子を使用したかどうかがわかるそうだ。
(後略)
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